
経歴まとめ(社会人時代)
どーもー、クロです。
ついに自己紹介記事も第5弾にもなり、最後の記事になりました。
もう恒例のあれはやめておきます。
聞くだけ野暮だよね、ここまで来たんだから。
ここから読む人は過去の記事を読んだらなんのことかわかります。笑
ここからは2017年、会社員として社会に解き放たれた以降のお話です。
それ以前の学生の時のことが知りたい方が、これより古い記事を読んでみてください。
さて、超絶多忙、ブラックの中のブラック。
テレビ番組ADの道を選んだクロの人生はいかに!!
ADといえば、
「家に帰れない」「3日はシャワー浴びれない」
そんな話をよく聞きますが、
クロが配属された番組は、日本を代表する超長寿番組。
平成元年から続く、朝の風物詩のこの番組。
「渡辺篤史の建もの探訪」
一定世代より上は、土曜の朝はこの番組をみてから学校に行っていたという番組。
入社して1週間。
私はいろんな意味で拍子抜けしました。
イメージと正反対のホワイト待遇。
「一般のご家庭にお邪魔するのだから身なりは清潔に」
「忙しくない時は早く帰れ」
「この番組には収録を休み期間がある」
「ここ3ヶ月ADがいないけどなんとかなった」
などなど…
これは、私は一体なんの必要があるのだろう。
と思うくらい、時間があって、スタッフは良い方ばかり(ほとんどお父さんと同い年くらい)で、後にも先にもこんなに安定した期間はないくらい平穏な1年と少しでした。
ここで学んだことはそんなに多くはないけど、
現場を知ること、尊敬できる人に出会うこと、自分についてゆっくり考えることができる期間でした。
最終的には、信頼していた上司に首を切られた形で辞めていますが、
「お前はこのままここにいるべきではない」と言われた時は、覚悟していたとはいえ、涙を隠せませんでした。その後も1週間くらい悩んでいたのはここだけの秘密の話。
とにもかくにも、1年後の3月にはこの素敵な現場を去り、
偶然が読んだ次なる現場、テレビドラマの裏方の世界に行きます。
本物の過酷な現場、これが思い描いていたテレビの裏方家業。
テレビドラマの助監督、という仕事はまさにそんな仕事でした。
私が関わったのは、日本テレビで当時放送していた連ドラ
「ウチの夫は仕事ができない」
錦戸亮さん主演、松岡茉優さんがヒロインのラブコメドラマ。
約半年間、1日の休みもなくこの作品に関わる日々が続きました。
助監督という仕事は説明が難しく、
ただ誰よりも立場が下で、全てのスタッフの指示に応え、現場が滞ることがないように走り回る、いわゆる現場の何でも屋さん。
一応メインの仕事は、美術関係の演出補佐。
ま、簡単にいえば台本に書いてる資料を作ったり、なくても必要な小道具を想像して発注したり、晩御飯のメニュー決め、チャットのこれまでのメッセージのやりとり、奥さんが買ってくる本のタイトルを考えたり、検索してるパソコン画面を作ったり…
そんな、「あ、それ考えてる人いるんだ!」
っていう部分を主に考えてる人をしてました。
すっごく忙しくて、全てのスタッフから不当に扱われて、
初めて胃がキリキリするってこのことかって思うくらいストレスを感じ、
何度も途中で辞めようと思った現場だったけど、なんとか最後までやりきった助監督という仕事。
2度と現場に帰る気はないけど、
明らかに今の自分の自信につながり、成長できた半年間だったのは間違いないです。
その地獄のような半年間の反動で、
その先の2ヶ月くらいはただただゲームをする日常を送りました。
私の生活を染めた伝説に残るソフト「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」
このゲームをプレイするためだけに発売日にスイッチを購入しました。
もともとゲーム好きで、一度ハマるとクリアするまで他のことに手が回らない人間だった私は、
学校がなければいわゆるニート状態。
でも、今まで作る側をしていた自分にとって、ゲームっていうのはただ受動的に受け止めるだけの作業。
ゲームをしている時に、浮かぶのはゲーム面白いな〜よりも、ここの作り込みすごいな、とか、これ考えた人は何を思ってこういうデザインにしたんだろう。
と、作り手のことばかり考えてしまい、楽しかったけど楽しみきれてない自分がいました。
そうやって2ヶ月も過ごすと、貯金も底をつき、仕方なくバイトで食いつなぐ時期が始まります。
手元にあるのは使いこなせない一眼レフカメラと、時間だけ。
助監督のギャラで、自分へのご褒美として2年間ずっと欲しがっていた一眼レフを購入しました。
CANON EOS 70D。動画もやりたいと店員に3時間相談して決めた買い物。
しかし一眼レフの使い方が全くわからず、部屋の中で長らく埃をかぶることになります。
そこからの約1年間。
色々なバイトでなんとか食い扶持をつなぎつつ、交流会に顔を出したり、声優事務所に少し入ってみたり…
今思えば、なんてバカなことをしてしまったのだろう。
と思うくらい、アホなことをたくさんして、バカすぎる失敗も数えきれないくらいしました。
特にお金に関する問題では、取り返しのつかない失敗もして、
自分はなんてバカなんだ。これからどうしよう。と、本気で悩む日々。
まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい……
そう思うも、下手に動くと傷跡が深くなる一方だし、
これはあれか。一回詰んで負けちゃった方が良いやつか。
なんて思ってる時もありました。
そうやって少しでも割りのいいバイトを探して、銀座のクラブバーでバイトしたり、早朝から働いてみたり、成果報酬の営業や、日割りバイト、色々やりました。
そんな日々を過ごしてる私に、2年前に出演させてもらった舞台の主宰から、撮影の仕事のお話をいただきました。
きっかけは小さなコンデジと、AD時代の緩やかな時間が与えてくれたカメラを触る時間。
AD時代、業務の一つにロケハンの記録を撮る、という仕事がありました。
そこを切り口に、カメラというものに緩やかに興味を向けた私は、その時に出演していた舞台で5000枚を超える稽古写真を撮っていました。
毎週の稽古で必ず写真を撮り、写真を撮りながら稽古を受けることがスタンダードになっていました。
(ちなみにその舞台はダブルキャスト&ダブル上演だけど主演をやらせてもらってました)
その時の主宰が、今年再演するから、今度はきちんと仕事として撮影を依頼したい。
そう言って、私にカメラマンという新しい道を開いてくれたんです。
もちろん、仕事としてやる以上、変なものは出せない。
であれば、カメラの使い方がわからないなんて論外中の論外だ!
急いで練習しなければ!!!
と、仕事←稽古の順に、私はカメラを学んでいきます。
そこから1週間で10人のポートレートを撮り、何人かのカメラマンに使い方を習いにいき、なんとかその撮影を無事に終えると、
不思議なことに全く関係のない知り合いから、今度は来月オープンするお店のメニューの写真を撮ってもらえないか、とお話を頂きます。
立て続けに撮影が入ったこと。
そして同じようなバイト生活に飽き、そろそろ何かを始めないと、と感じていたこと。
そんなこんなで、いきなりバイトを全てやめてカメラマン1本で生きることを決めます。
波がありすぎるカメラマンとしての生活。
2018年の10月からカメラマンだけで生活しています。
成功とは言い切れないけど、なんとか生活できるくらいの稼ぎを毎月あげています。
しかしそれにしても、カメラマンの仕事は月に寄る波が非常に大きい。
独立した頃、10月、11月というのはカメラマンにとっては非常に忙しい時期。
結婚式、七五三、前撮り、年末に向けた企業の追い込み、などなど。
その勢いはすごく、10月に始めたばかりの私の手にも仕事がくるほどでした。
しかしそうとは知らず、カメラマンで生計立てるのって、思ったより難しくない?
と、余裕をこいていた私は、年末年始に1ヶ月近い連休を味わい、カメラマンの難しさを痛感します。
撮影という仕事はあるとこにはあるし、ないとこには全くない。
個人では頻繁に必要なものではないし、そもそもカメラの性能は年々上がっているからプロに頼む理由ってあまりなくない?とさえ思われている時代。
確実に写真だけ撮っていたら、カメラマンとしての未来は消えて無くなる。
これはもうすごく最近のことだけど、
そう考えた私は、写真を物語にしたり、写真をゲームにしたり、色々なものに置き換えることで正解を探し続けています。
それと同時に、ここ最近きている貯信時代の波や、可処分精神のことを考えたり、大きな事業を起こしてる人への憧れから、一つ新しいエンタメを作りたい。と感じる日々。
ここから先のことは私にもあなたにもわからない未知の領域。
ワクワクと同時に不安もたくさんあるみたことのない世界。
でも未来はわからないから面白い。
私は正直、いつまでカメラマンでいるか。いつまで役者でいるか。
確固たる自信を持って、一生とは言えません。
私はすごく気まぐれで、次の瞬間には全く違うことに意識が向いているから。
だから、気長にここで見守ってくれればと思います。
今、クロはこんなことしてるのかーって。
多分、立ち止まることはしないと思うからさ。
というわけでは長々と、全部合わせれば卒論レベルのレポートのような分量になった自己紹介を読んでくれてありがとうございました。
もしクロって人間があなたにとって、気になる人だったら、これからも「クロネコとコスモス」に遊びに来てください。
いつでも待っています。
(3日坊主の私のケツを叩いてください)

